mathichen 雑記帳【Hatena版】

ウェブリ休憩所の保存庫

彼を優しく愛して、彼から優しく愛されて

クタビレてるのに眠れない 午前4時に、さあ湯を沸かせ!ただしラーメンでなく、珈琲入れるために 【鏡よ鏡よ鏡さん】(2009年7月3日Yahoo!本館) エルヴィス・プレスリー、例えセスクに似てなくても、好きだわ 1935年1月8日 - 1977年8月16日 昨日が、存命であれば、80歳の傘寿を迎える日となった どんな爺さんと化していたのやら(あまり想像したくない) ご面相は後年のニクソン大統領そっくりのエドサリヴァン渥美清が大昔、しょおもない洒落として 「アメリカには、エドサリヴァン・ショーという東京の裁判所がある」 1954年生まれから聞いた実話を備忘録しとく) ロックは不道徳じゃの石頭連中を押し切り、エルヴィスを出演させた が、腰振るのが問題じゃと、上半身しか映さなかった回 この映像の時だった? 1966年丙午生まれなのでようわからん (1973年の、現代で言う衛星生中継、当時の宇宙中継も同じ) 後でゆっくりYouTube散策するべ~
軍歴 1958年1月20日に、プレスリーアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。プレスリーは特例措置を受けることなく、他と変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年3月5日に満期除隊した。 徴兵命令が来た際、プレスリーは「闇に響く声」を製作中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、プレスリーは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。 プレスリーは軍在籍中に空手の黒帯を取得し、軍曹まで昇進した。また在籍中、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師はプレスリーの声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、回復し健康を取り戻した。 ( Wikipediaエルヴィス・プレスリーより引用 )
‘バイ・バイ・バーディー’(1963年) 超人気ロック歌手のバーディーが召集された事で 町中の女の子たちが大恐慌に陥り 徴兵前に国民的音楽番組でお別れショーをし そこでファンの中から1人、バーディからお別れキス獲得権を手に出来る 見事選ばれた少女とその周辺の騒動を描くミュージカルコメディー 題名役のモデルが、エルヴィスで、彼の徴兵騒動を風刺してるのよ ちなみに、ヒロイン役のアン=マーグレット エルヴィス映画で共演した結果、上手過ぎて、彼を大恐慌に陥れたという その後、B級以下女優ばっか選んだとは、男としてちと情けないわ~ 素顔は、飲酒しない代わり、超甘党 好きな食べ物はドーナツの他、ピーナッツバター・サンド マカロニ・アンド・チーズもだっけか 肥えて当たり前の物ばっかですな 最晩年、といっても42歳の若さの体重が、120Kg(怖) …セスクが120Kgの巨体になったら、辞世の句を遺し地獄落ちしそう かなり錯乱をきたした。気を取り直し
死と埋葬 1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドで没した。ガールフレンドのジンジャー・アルデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3:30にプレスリーの死亡を確認した。42歳没であった。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された。 晩年、プレスリーはストレスからくる過食症に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、1975年くらいからは主治医だったジョージ・ニコポウラスから処方された睡眠薬などを「誤った使い方」で服用していた。「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・ソニー・ウェストなどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。 グレンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないといっているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷した。違法なドラッグは一切使用していないが、この処方ドラッグの影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。 当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られたキャディラック、愛娘の名前をつけた自家用機、コンベア880型「リサ・マリー号」などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。スコティ・ムーアは「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しなかった。
亡くなった数年後、1980年代前半に、次のような話を読んだ 「巨大化した最晩年は、グレイスランドに引きこもり状態 好物ムシャムシャ食べながら、AV鑑賞していた 美女たちと何P?乱交の主人公、エルヴィス自身との事」 現代に同じ状態とすれば、18禁探してを含むネット徘徊? 自由はカネで買えるが、名声は孤独を招きやすいからね…
生い立ち プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロの小さな家で生まれた。父ヴァ―ノン・エルヴィス・プレスリー、母グラディス・ラブ・プレスリーの3人家族であった(プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している)。父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど非常に貧しい幼少時代であったが、両親はエルヴィスを大事に育てた。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりに与えられたのがギターであった。これを機に自宅の地下洗濯部屋で練習し音楽に傾倒していった。 1949年にロウダーデール・コート公営住宅に転居し、プレスリーが13歳の時にテネシー州メンフィスへと引っ越した。メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育った。エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。ある日、毎回欠かさず観に来ていたエルヴィスだったが、入場料を払えないとの理由で1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「では次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、エルヴィスは無料でショーを観ることができた(70年代のコンサートではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。プレスリーは高校卒業後、精密金型会社で働いた後にクラウン・エレクトリック社に転職しトラック運転手として働いていた。 1950年代のアメリカでは音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っており、当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。 1970年代、プレスリーがツアーをはじめた時、ツアー先の白人プロモーターから「黒人娘(「ザ・スウィート・インスピレーションズ」のことを言った。実際にはもっとひどい差別的な言い方をされた)は連れてこないでくれ」と連絡を受けたことが度々あった。プレスリーは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と言い張り、向こうが謝罪し、多額のお金を積んだが、絶対に行かなかった。
「メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、 そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育った。」 確か、玄関開けたら、裏口が見えるようなボロっちい家に住んでいた 白人でも最下層だと、黒人と大差無い環境であったと推察される 黒人音楽、そして同胞意識が、ごく自然に血肉化されたのかと 後に莫大な財産築くも、庶民のジャンクフード好きにも表れてる? 弱者への慈悲の精神、か…
身体の不自由な子供たちが学ぶブラウン・ハウス学校に、1人の新人看護婦リナ・カナダ(デボラ・ラフィン)が到着した。美しい自然の中で子供たちの歓迎を受けた彼女は、しかし1人の少女の暗い表情を見た時、不安をおぼえた。その少女カレン(ダイアン・レイン)は心臓が弱っており、長くは生きられないという不幸な少女で、いつも押し黙ったまま車イスに腰かけていた。なんとかこの不幸な少女に何らかの喜びを味あわせたいと願ったリナは、カレンの世話を願い出た。相変わらず自分の殻に閉じこもったままの力Vンに、努力が通じないリナは焦ったが、ある日、カレンのヒザに顔をうずめて泣くリナにリナと発音するカレン。初めて発した言葉だ。やがて、それ以来、2人の心は通じ合い、カレンは明るい少女へと変貌していった。ある日、リナに誘われてドライブに行ったカレンは、店で流れていたエルビス・プレスリーの歌に顔を輝かせた。彼女は以前からエルビスの大ファンだったのだ。それを知ったリナは、彼女にエルビスのLPをプレゼントし、彼にファン・レターを出してみてはと勧めた。字のうまく書けないカレンは必死で鉛筆を走らせエルビスに手紙を出した。しかし、何度書いても返事は来ない。リナは後悔した。やがて冬もまじかい頃、ついにエルビスから返事が届いた。興奮のあまり呼吸困難に陥るカレン。さらに、クリスマスの近づいた雪の降る日、なんとエルビスから大きなピンクのテディ・ベアがカレンの元に届いた。彼女の顔は喜びに輝くのだった。その夜、カレンは短い生涯をとじたのだった。 ( http://movie.walkerplus.com/mv9511/
‘ラスト・レター’(1980年) 日本と中国では劇場公開されたが、本来はTVムービーである 看護婦役のデボラ・ラフィンが、中国にキャンペーン赴いたら 彼の地で人気沸騰中、熱烈歓迎だったって カレン役のダイアン・レーンは、演技が上手過ぎるあまり 彼女を知らない米国のTV視聴者が本物の障害児と信じたそうな 最期を迎えたカレンの側に、書きかけの手紙が残されていた To Elvis with Love(エルヴィスに愛を込めて) …エルヴィス、真面目な話、アンタはセスク級男前以上の男前 いつ頃の逸話かわからないけど、巨大化時代でも天使認定しよう